新世紀エヴァンゲリオン第26話:海外の反応「何? おめでとうだと?」


●「だが、その全てを記すにはあまりにも時間が足りない」 ——ハハ!

●補完計画についてはまだまだある。
これの前半は2〜3回は見ているけど、一度も好きになったことがない。
前半は1人で物思いに耽っているとエヴァがだんだん重くなってくるよ。

「そうよ。私たちはみんな同じなのよ。」

●「私たちはみんな同じなのよ。」とミサトは言う。
補完は相補性をねらっているね。
すべての心がお互いに満たしあうんだ(だけどみんなが欲しいのはそんなことなの?)。

●各キャラクターが深い内省に入っていくみたいだね。

●おもしろい点がここにあるね。
私たちはみんな同じで、他者の心に捕らわれていると同時に、心の中に他者を捕らえているんだ。
うん、それはシンジの心の中のミサトとアスカ、あるいはシンジが自分を嫌いなように自分たちを嫌っている2人の心の中にいるシンジを捕らえている2人だよ。
でも現実の2人もそうだけどね。
この番組の全員があるレベルで壊れている。
この番組の全員が自分を嫌っている。
そこがポイントだよ。
私達は全員似ていて、この類似ポイントが私たちをバラバラにする——私達が似ているからではなくて、この特異点が私達を孤立させるからだよ。

「そうよ。嫌なことが逃げ出して何が悪いっていうのよ?」

●「嫌なことから逃げ出して何が悪いの?」
ミサトはシンジの台詞を繰り返す。
でもこれはシンジの心の中にいるミサトなんだ。
というか、シンジのイメージをもっているミサトの一部だ。
では誰が彼らに話しかけているの?
切れてしまった電話の声、避けようとしたけど失敗した声。

「逃げたら辛いんだ。」

●「逃げちゃだめだ。」
そして苦しい現実からシンジが一時的に逃避するシンボルであったテープ・プレイヤーが見えるね。

●「逃げることは苦しいから。」
「苦しいことから逃げているのに?」
ここに、逃げることがなぜ問題なのかというこのアニメのメッセージがあるね。
君は逃げ続けるんだけど、逃げた事、逃げてしまった事から逃げているからだよ。

「僕はエヴァに乗っているからここにいられる。」

●シンジは自分について本来ポジティブなことは何も見えないけど、だから誰も彼を尊敬しないのではなくて、彼は自己嫌悪のループにはまっているんだ。
彼は自分を尊敬できないから、他人にその尊敬を見なければならない。
これについては散々見てきたよね。
番組の大半がシンジのことだったからね。

●第26話はシンジの物語の頂点だね。
自己嫌悪から承認の恐怖、そして愛まで行くよ。

「そう思い込んでいるだけでしょ?」

●予算節約が伝説的なレベルにまで達してきたよ。
「学生の宿題のぐうたらなアート」レベルまで落ちて、努力の代わりに賢さが使われているね(つまり、金がない……)。

●テレビ局はセガをスポンサーに呼び戻したんだよ。
レリエルのエピソードが放送上、暗すぎたからね。
私の知る限りでは、初回放送でエヴァンゲリオンはあまり視聴率がよくなくて、後にもっと遅い時間帯に再放送されたときにようやくそれに見合う評価をされたんだよ。

●タイトルに関するメモ:これはシャレだとおもう。
「世界の中心でアイを叫んだけもの」のアイは日本語の愛の同音異義語だね。
つまり、古典的SF小説、「世界の中心で愛を叫んだけもの」から来てるんだよ。

●ハーラン・エリソンとその小説「世界の中心で愛を叫んだけもの」(最終話のタイトルはここからとられている)についても言っておこう。
これは悪の性質と物事の相互関連性についての超現実的で変な話なんだ。

世界の中心で愛を叫んだけもの :ハーラン・エリスンによる短篇SF小説、及びそれを収録した短篇集。

「何者にも束縛されない、自由の世界だよ。」

●さらにスケッチ的な、空っぽのキャンバスの世界にまで落ちていく。
シンジはゆっくりとそれに実態を与えていく——おもしろいことになぜか使徒のようなものになって、心のままに変化することによって。
「あたかも私はここに存在するかのように、でもここには全く存在しない。」
最後にこの世界も一種の死になる。

●この2つのエピソードに予算問題で苛立っている人がいるけど、信じられない瞬間をたたき出したことを考えてよ。
例えば、26話の手書きの落書きのような場面は、すごく画期的だよ。
こういうことのためにエピソードは進行しているのであって、馬鹿みたいなアクションがいっぱいあれば良いってもんじゃないんだよ。

●「自由の世界。だがその代わり、何もない。」
ヘブライ語の歌でこんなのがあるね、「自由だから完全にひとりぼっち。」

●手書きの部分はただただ素晴らしいね。
ガイナックスに本当に芸術性があることを示しているし、すごいスタジオであることが分かるよ。
これはあまりガチャガチャしていないから好きだよ。

「ほら、これで天地ができたわ。」

●「お前に不自由を与えよう」と父の声が言う、「ほら、これで天地ができたわ」
前には気づかなかったけど、「創世記」って神が世界を創造するんだけど、分け目を造り、境界線を造り、分けることによって造るんだよね。

創世記:古代ヘブライ語によるユダヤ教、キリスト教の聖典で、イスラム教の啓典である聖書(旧約聖書)の最初の書であり、正典の一つである。
写本が残っており、モーセが記述したとされている。

「それはあなたの意志。」

●地面の定義が限界とともに来るところがおもしろいね。
地面を定義することはできるし、飛行する者として自分を定義することもできる。
でも「天国」はそんな風には働かないよ。
それは君がいない場所、潜在的に求める目標、不在、心の穴として定義されるんだよ。

「一人はどこまで行っても一人じゃないか。」

●またシンジの心にもどる。
そこではまだ彼は孤独だ。
教訓はこんな感じだよ。
抽象的で、客観的な世界では生きていけない。
だってそれじゃあ死んでいるのと変わらないもの。
でも、現実の世界に生きるなら、そこには痛みや苦しみがあるよ。

●「人類補完計画」はみんなにとって、それぞれのイメージで世界を造ることなんだね。
その中にいれば最も快適な世界を?

●シンジの内省の最も深いものだけど(彼は主人公で、実際、彼に関連する事件を見てきたんだから当然だ)、最も練られていて、これだけに解決策が与えられている。
それは信じられないほど良くできていて、キャラクターはともすると侘びしい世界の景色に一筋の希望を見つけるんだ。
自分を嫌悪することをまず止めなければ、他人は自分を愛してくれない。
これは全く真実だし、私には(言っておくけど、私が自分を嫌いということじゃなくて、別の個人的な理由で)深く感情的に響いたよ。
だから、この2つのエピソードでのシンジの旅はとても魅力的に思えたよ。

「あなたも新聞ばっかり読んでないで、さっさと支度をしてください。」

●そしてシンジは目覚める。
補完は終わったのか?
驚いたことに彼は機能的な部屋に、とても90年代的なバックパックとか色々持っている。
アスカもそこにいて、彼女もとても90年代だ。

ユイもいる、ゲンドウも。
みんな戻って来たの?
(でもゲンドウはまだ新聞に顔を埋めている。 結局、これも彼が望んだ世界なのか? 顔を新聞に埋め、妻に叱られる世界)
レイも見える。
彼女もとても90年代的で、私達が知っているレイとは違う。
これが「本当の」レイなの?
この新しいシンジはパンチラに感謝することができると言っていい。
たぶんそれが進化なの?

「今日は噂の転校生を紹介する。」

●今やミサトは先生だ。
彼女はいつもそんな感じだったと思うけど?

「何、できてるわけ、2人?」

●パンチラ女が登場し、避けがたいドタバタが起こる?
これは完全に違う番組だよ!
アスカは典型的なアニメの不公正さに対してシンジの味方になりさえしている。
これはどこへ行き着くの?

でも、ミサトは酔っぱらってるようにも見えるけどね。
変わっていないこともあると思うよ。
ガイナックス(いまでは株式会社カラーだと思う)がこの別世界のテレビ番組を実際に手がけてくれるといいんだけど。
ポスト「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」(おおざっぱに言えば)の「学園ドタバタ編」みたいな感じで。
そうなるとすごいよ。
カヲルも登場した方がいい。
で、時々超常現象的なことがあったりして(これって「新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド2nd」?)

●レイがアスカにシンジと「つきあってる」のか訊くなんて、人生で最もシュールな瞬間だったよ。

●このパラレル・ワールドは2〜3のスピンオフを生んだ。
ちょっと楽しいし、覚えている限りでは、英語版のキャストも本当にがんばったよ。

「現実を真実に置き換えている、君の心さ。」

●「現実を真実と思い込んでいるのは君だ。」
自分自身を嫌っているシンジのことについて話している。
嫌悪している者の話をしているのか、あるいは嫌悪されている者?同じ人かな?
他者が私たちをどう認識しているのかによって私たちが定義されるとしたら、シンジは回りの人間に嫌われているってこと?

いや、声が彼に語るように、シンジを嫌っている人達として認識するか、あるいは彼らを鏡としてシンジが見ている自分を彼が嫌っているかどちらかだろうね。
彼らが認識しているのがシンジじゃないとしてもだよ。

そうそう、私が言おうとしていたのは、「現実を真実と思い込む」という事だよ。
これは現実のものは真実、真実のものは現実というように、普通でかなり安定した関係であると多くの人が認識しているものとは正反対に見えるね。
唯我論的で、建設的でさえあるアプローチがここでは中心となっているようだけれど、その背景にある別のものも真実に近いと思うよ。
つまり、哲学のサイクルで「基礎」と考えられるもの、さらに重要なことは、私たちが実際に作業しているカント的アプローチだよ。

私達はみなポスト・フロイト的人間で、この様式で言うと、自己言及的で、自己分析的だという議論があるけど、私にはカントなしにフロイトを考えるのはむずかしいよ。
私たちが見ている現実は、私たちの感覚、パターンを媒介しているんだ。

だから、「現実」と考えられているものは、実は「私たちが認識する現実」であって、これはグノーシス主義的な可能性にも私たちを連れ戻すね。

グノーシス主義:1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想のひとつである。
物質と霊の二元論に特徴がある。
普通名詞としてのグノーシスは古代ギリシア語で認識・知識を意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する。

「だけど、人はその自分の小さな物差しでしか物事を測れないわ。」

●「だけど、人はその小さな物差しでしか物事を測れないわ。」
彼女が言ったんだよ。

「でも、僕は僕が嫌いなんだ。」

●明らかに終わりに近づいているね。
だって「残酷な天使のテーゼ」の演奏が次のシーンのバックに流れているもの。

●↑あの曲は「Good, or don’t be」というタイトルで、私の意見ではエヴァンゲリオンの中で最も美しい曲の1つだね。

●↑投稿ありがとう!
最後にこれがバックで薄く流れているのを聞くのは本当に美しいよ。


●いつも思うんだけど、エンディングはちょっとせわしないけどいいんだよね。
ゲンドウが冷酷な糞野郎じゃないところがいい。

「僕はここにいてもいいんだ!」

●結局、シンジはむしろ現実の世界に生きることを決めたね。

●他の人も言ってたけど、とても力強くポジティブなメッセージで終わるね。
自分自身を大事にする(あるいは敢えて愛する?)やり方を学ぶ限り、世界のすべてのクソみたいな事もなんとかなるということかな。
今のところ私に言えるのはこんなものだ……。

●このエンディングは物議を醸したよね。
庵野はふざけてるとオタクから脅迫もされたんだよ。
想像できると思うけど、これは彼のファン層から本当に嫌われたからね。

●おめでとう!

●初めて見た人たち、おめでとう!

●何?
おめでとうだと?

●私見だけど、エンディングとしては全然おもしろくない。
エンディングの一部だとしたら、個人としてシンジの旅のとても詳しい結論を見たんだから素晴らしいんだけど、シリーズ全体としてはねえ?
意味が通じないよね。

●「人類補完計画」はお互いの欠陥を埋めるために、すべての人間の魂を圧縮するという変な方法に思えるよ。
補完の部品がぴったりと合って、みんなが活動的で完全な1つの人格になって終わるということだろうね。
その過程が25話と26話で示されていて、ほとんどがシンジの視点からだ。
最後にすべてがついに一体となって、シンジは全てOKと決心して、みんなが彼を喝采して、最後の跳躍/修正をする。
ハッピー・エンド、幕が閉じる。

旧劇場版ですが、よさそうな翻訳元がないためTV版26話で終了させていただきます。

https://www.reddit.com/r/anime/comments/2vs8nf/から翻訳

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